Aloha!アロハ検定事務局です。
いつもアロハ検定ブログ「アロハ検定 Da Kine」をご覧いただきありがとうございます。
当ブログの定期更新は、3月をもって一時休止いたします。
今後ともアロハ検定をよろしくお願い致します。
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アロハ検定事務局
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ハワイの一般家庭に欠かす事の出来ない食材のひとつにSPAMがあります。
そもそも、SPAMとは、アメリカ、ミネソタ州に本社を持つホーメル・フーズ・コーポレーション(Hormel Foods Corporation)が販売する、ランチョンミートの缶詰の商品名です。
スパムの正式日本上陸と時を同じくして昨年12月から運営されている、スパムの日本サイト(http://www.spam-jp.com)によれば、(以下、引用)
このSPAMという商品名は製造元であるホーメルフーズの副社長の兄弟にあたるKenneth Daigneau氏が考案しました。”Shoulder of pork and ham”(豚の肩肉ともも肉)を、覚えやすく、言いやすくするために略した名前がSPAM ブランドなのです。
と言う事です。
また、同サイトには以下のような驚愕に事実も、、、
SPAM 製品は:
* 1937年の登場以来、70億缶以上が販売されています
* 南極大陸を除くすべての大陸で販売されています
* 世界中で、毎年1億2,200万缶以上が販売されています
* アメリカでは、毎年9,000万缶以上が販売されています
* アメリカでは、99パーセントを超える食料品店で販売されています
* アメリカでは、1秒間に3缶買われています
スパムのバリエーションとしては、オリジナルのスパム・クラシック、タバスコ風味のスパム・ホット&スパイシー、昨今の健康志向を顧慮してクラシックより塩控えめな減塩スパムや、カロリー、脂肪分共に控えめのスパム・ライトなど、10種類以上のバラエティーに富んだ商品がラインナップされています。また、サイズにも種類があって、通常のレギュラーサイズ、ハーフサイズの他にもプラスチック容器に入ったサンドイッチ1切れ分のサイズのスパム・シングルや、予めペースト状にしてあって、パンに塗りやすいスパム・スプレッドなどもあります。現在、日本で発売されているのは5種類、それぞれレギュラー、ハーフの2サイズが用意されているようです。
少し余談になりますが、このスパムという名詞、ホーメル社が定めた商標ガイドラインによれば、「SPAMはすべて大文字で書かなければならない」とされており、インターネット上で迷惑メールなどに使用される「スパム」という表現は、「spam」と小文字で表記して区別する事を提案しています。
全世界の40カ国以上で販売されているこのスパムですが、アメリカ国内ではハワイやグアム、また日本でも沖縄で人気が高いという事実があります。この事は、スパムが第2次世界大戦から朝鮮戦争・ベトナム戦争の時代にいたるまで、米軍内で標準的な食糧として利用されていた為、軍事施設、従軍関係者の比率の多い地区に受け入れられて根付いたのではないかと言われています。そう言われてみると、何かと共通点の多い3カ所ではあります。
そんなハワイ州に於けるスパム消費量はなんと、年間約700万缶以上だと言います。
ハワイの国勢調査によると、2008年7月1日時点でのハワイ州の人口は、およそ130万人であると発表されていますから、全スパムの約8%がハワイで消費されている事になり、一人あたり年間約5.4缶を消費している事になります。(ちなみに、世界一スパムを消費しているのはグアムで、年間1人16缶を食べているそうです、、、)
スパムをこよなく愛するハワイには、スパムと楽しむイベントまであります。
今年7回目を迎える「ワイキキ・スパム・ジャム」というイベントは、ワイキキのカラカウア大通りを車両通行止めにして午後4時から夜10時まで開催されます。さまざまなスパム・レシピのコンテストやスパム関連グッズの販売、エンターテインメント・ステージなどが楽しめるこのイベントは、毎年4月に開催されていますが、今年は4月25日の予定です。スパム・ジャムが開催されているのは、ホノルル以外ではホーメル本社のあるオースティンだけで、このオースティンにはスパムのすべてが分かる(!?)スパム博物館まであります。
おそらくホーメル社が予想だにしなかったであろうスパム料理の傑作「スパムむすび」を誕生させたのは、もちろんここハワイで、こんなところにも日本とハワイの絆の深さを感じずにはいられません。
Chicken Skin - そうです。ハワイ・ピジンで言うところの「鳥肌」です。
この言葉、明らかに日本語=英語の直訳で、本来、英語ではGoose Bumpと言います。
このChicken Skinという奇妙な英語を、おそらく初めて世界に向けて発信したと思われるのが、ライ・クーダーという一人のギタリストです。
ローリングストーンズを始め著名なロックバンドのサポートミュージシャンを務めた後、1970年にソロ・デビューを果たした彼は、スライド・ギターの名手としても有名でしたが、ブルース、ゴスペル、ジャズ、カントリーなど、アメリカのルーツ・ミュージックを発掘し、世に広めたことでの後に高く評価されます。
彼は、アメリカン・ルーツ・ミュージックの研究だけでは飽きたらず、世界の素晴らしい音楽との更なる出会いを求めて、学者のように世界中を旅してゆきます。様々なユニークな音楽を掘り起こし、それらに独自のブレンドを施して自分のオリジナル・スタイルへ導入してゆきました。
そんな旅の最中、何故か(!)テクス・メックスと呼ばれるアメリカ南部からメキシコにかけての音楽とハワイアン・ミュージックの融合を目指し1976年に発表された、自身の5枚目のアルバムをChicken Skin Musicと名付けました。スペシャル・ゲストはスラック・キー・ギターの巨人ギャビー・パヒヌイとアタ・アイザックス。彼らがセッションしている時に、凄いプレイが飛び出して「Wow! Chicken Skin!!」とおもわず誰かが叫んだに違いありません。

このアルバムも全世界で高い評価を受けて、スラック・キーと呼ばれるハワイ独特のギター奏法がある事や、殆ど世界の人がハワイの音楽だと思っていたハッパ・ハオレではないハワイの音楽がある事も世界に知らしめたのです。そして、Chicken Skinという不思議な英語も、、、
ライ・クーダーは、ふとした偶然からハワイの音楽と出会い、その質の高さに驚いてギャビー・パヒヌイ・バンドや、ギャビーの息子達パヒヌイ・ブラザーズのアルバムもプロデュースし、ハワイ音楽の素晴らしさを世界に広めました。後にケアリイ・レイシェルやイズと言ったハワイのミュージシャン達が世界進出してゆく道筋をつけた大恩人と言っても良いのではないでしょうか。
カピオラニ公園の海沿いの遊歩道を東に向かって歩き、ワイキキ水族館を過ぎると一般のパーキングの脇に立ち入り禁止となっている門のようなモノがあります。

この建造物が、War Memorial Natatorium(通称ナタトリウムと呼ばれる)ハワイ初の海水プールの名残です。
第1次世界大戦後の1920年頃、その命をかけて国の為に尽くしたハワイ出身の兵士達の為に記念となるモノを建造しようと、その当時のアメリカ領ハワイは考えました。
そこで、1920年代中頃になって、その兵士達のメモリアルにもなり、市民にとっても価値のある施設になると、オリンピックサイズの囲われた公式競技用プールを建てる事を決定しました。
それまで、ハワイでのすべての水泳競技大会はホノルル港の海の中で行われていたと言いますから、何ともおおらかな話ですね。
場所は現在のサン・スーシ・ビーチのお隣、浅い海底を掘って、当時の公式オリンピックサイズである100メートル・プールが建設されました。
このプールは1927年にワイキキで開催されたthe National Swimming meetsと言う全米規模のスポーツイベントでお披露目され、そのオープニング・セレモニーでの泳ぎ初めは、ハワイが産んだオリンピック・チャンピオン、デューク・カハナモクが務めたといいます。
その後、市民にも人気の水泳用施設として利用されましたが、設備の老朽化の為、1979年に閉鎖されてしまいました。2000年には、当時の市長、ジェレミー・ハリスの指揮の下で、外壁や観覧席の補修工事が行われましたが、予算の関係上、プールそのものの内壁やフロア等が手つかずで、実際に利用するには非常に危険として、残念ながら、いまだに一般公開はされていません。
さすがに、築80年を完璧に補修するのは予算的にも大変でしょうが、このまま放置して朽ち果てさせるには惜しいほど美しいデザインを持った建築物です。
ハワイ統一の王、カメハメハが「孤独の人」と呼ばれるのに呼応するがごとく、太平洋の真ん中で孤高の存在感を示すハワイ諸島。一番近い大陸、アメリカ本土からでも4000km近い距離を保っているが為に、ハワイ独自の進化を遂げ、独特の生態系を作り上げた動植物が数多く存在する事も知られています。しかし、かつて9000種近く存在していたという固有の動植物のうち、すでに1000種以上が絶滅したと言われ、今も全米の総数の3分の1に相当する数百種が絶滅の危機にあるのです。
ハワイにマルケサス諸島から最初の人間が到着したのは西暦500年頃。彼らは 食料・薬・染料・木材として生活に欠かすことが出来ない植物20数種と、豚・鶏・犬などをカヌーに乗せやってきました。10〜13世紀にかけてもタヒチ周辺からの移住が行われましたが、1778年のキャプテン・クック来島以降、ハワイを訪れる人は爆発的に増加し、この後200年あまりの期間だけでも約8000種の植物、牛・ヤギ・羊などの動物、蚊などの昆虫、鳥が持ちこまれたと言われています。
たとえば、ハニークリーパーと呼ばれるハワイ・ミツスイは、これまでに50数種類存在していたことが知られていますが、このうちの半数が、西暦400年以降のポリネシア人の移住、1800年以降の西洋人の移住に比例するかのように絶滅しました。現在、 ハワイには、約半数となった20数種のハワイ・ミツスイが生息していますが、そのうちの約3分の2が、絶滅危惧種に指定されています。
このように人間の移住がハワイの自然にとって、もっとも大きな変化の要因であり、脅威となっている事は明確なのですが、実際にそう言った現実を実感出来る場面に向き合える機会が無いのも事実です。
そこで、今回ご紹介するのが一冊の写真集”Remains Of A Rainbow”~Rare plants and animals of Hawai’i~です。
そのタイトルが示す通り、ハワイの希少な動植物、昆虫、魚など、約140種類にも及ぶ生き物の写真集です。ハワイアン・モンクアザラシやネネ等、比較的よく知られているモノは勿論、初めて目にするような動植物も数多く収められています。アナログのLPレコードジャケットを少し大きくしたぐらいのサイズのこの本。ほとんど1ページに一種の生き物がどアップのポートレイトのように大迫力で収められていて、それぞれの持つ質感を実感しつつも、一つ一つのユニークなディテールを観察する事が出来るのです。
巻末にはそれぞれの個体のデータ(英語名、ハワイ名、学名、生息エリア、個体数等)一覧が掲載されています。この表には、その種にとってなにが脅威で、どの程度なのか、そして、現在確認されている個体数も明記されていて、かなり生々しく「絶滅危惧」の具合を実感させられるのです。
「虹の名残」という名前のこの本は、まさにタイトル通り、今にも消えてしまいそうな生き物たちのはかなさと、消えさせてしまうには、あまりに美しすぎるそれらの姿を我々に届けてくれています。
毎年、2万個(匹)近くのラバーダッキーがアラワイ運河でレースを繰り広げるユニークなチャリティー・イベントが今年も3月21日にやってきます。
このイベントの主役、ラバーダッキーは、ちいさくて黄色いビニール製の、お風呂で遊んだりするアヒルのおもちゃのことです。
レースに参加したい人は、1個(匹)につき$5払って、ダッキーを自分の「養子」にします。ひとりで何匹養子にしてもOKで、手続きが終われば養子にしたダッキーのID番号の書かれた認定証を貰い、それぞれのダッキーは首にID札を付けられてレースに参加します。イベント当日のエントリーも、レース直前まで可能です。受付場所及びプレ・イベントの会場は、マッカレー・ショッピング・センターで、当日9:00〜12:30までです。
通常、参加費用は1匹$5〜ですが、$25でダッキー4匹とイベントTシャツというQuack Packや、さらには$100で22匹とTシャツの「イベント開催22回記念パック」、$250で50匹とTシャツ+キャップと言う、「ハワイ脳性麻痺協会50周年記念パック」、といったお得なパッケージまで用意されています。このレースは、ハワイ脳性麻痺協会主催のチャリティー・イベントで、参加費用は協会への寄付金となります。
当日は、朝から、プレ・イベントでお祭り気分を盛り上げます。そして、レース直前にはハワイで一番短いと言われるダッキー・パレードが同ショッピング・センターから、スタート地点であるカラカウア通りのアラワイ運河の橋にむけて練り歩き、道行くドライバー達にレースをアピールします。
毎年、アラワイ運河が海に向かって流れ始める干潮時に合わせてスタート時間を決定します。そのため、今年のスタートは午後1時22分となりました。
簡単なセレモニーの後、いよいよレースが始まります。大きな箱に入れられたダッキー達が、橋の上からアラワイ運河に一気に投入され、ダッキーたちは固まって、ゆったりと流れに身を任せ進んでいきます。ゴールまでは約2〜300メートル(?)。レースの所要時間はその日の潮の流れ次第ですが、約10〜20分です。
あとはどのダッキーがコースの中央にあるゴールに入るか、のんびりと観戦するのみです。(と言っても、我がダッキーを識別する事は全く不可能なのですが、、、)
上位50位までのダッキーの里親には豪華賞品が用意されています。今年の賞品ですが、3位は月に1度、ペアでシズラーのディナーが食べられる権利、2位はガソリン1年分、そして1位はペア、4泊のラスベガス旅行です。iPhoneと$150のアップル・ストア・ギフト券なんていうのも5位に用意されています。
日時:3月21日(土)
9:00〜12:30 マッカレー・ショッピング・センターにて各種プレイベント
12:45 ダッキー・パレード
13:22 ダッキー・レース スタート
場所:マッカレー・ショッピング・センター&アラワイ運河のカラカウア通り橋
申し込み方法: United Cerebral Palsy Association (808)532-6744
または、公式サイトwww.UCPAHI.orgにて。
今年がハワイ州昇格50周年という事で、事あるごとに掲げられるハワイ州旗。
アメリカ50州の内でも、アメリカ国旗と共に州旗を掲揚するのはハワイ州だけです。
この州旗が、イギリス国旗のユニオン・ジャックと、ハワイ主要8島を表す8本のストライプから構成されていると言われているのは皆さんご存じのとおりですが、そもそも、このデザインの元が出来たのは1816年であると言われています。
諸説ありますが、カメハメハ一世は1793年にジョージ・バンクーバー艦長からイギリス国王ジョージ3世からの贈り物としてユニオン・ジャックを受け取りました。この旗は、イギリスからの正式な承諾を得たものではありませんでしたし、ハワイの人々もその旗を掲揚する意味を深く理解していなかったようですが、とりあえず(?)港や、建物の上など、目立つ場所に掲揚していたようです。
ハワイに立ち寄る列強を始めとする外国船は、当時絶大なる力を誇っていたイギリスの旗が掲げられているのを見て、この島はすでにイギリスの統治下にあると勝手に理解し、結果としてハワイの土地や主権を守る役割を果たしたのでした。
1816年に、当時の貴重な輸出品だった白檀を積んで、中国へ渡航するハワイ最初の船が出航するにあたって,カメハメハ大王は独自の国旗が必要だと感じ、ユニオン・ジャックに赤・白・青の横縞を付け加えた特有のハワイの旗を掲げ、「カ・ハエ・ハワイ」と名付けました。
この旗は,アレキサンダー・アダムスとアイザック・デービス,ジョン・ヤングらの協力のもと,王がデザインしたものと言われています。初期の何年間か,ハワイの旗に一定のデザインは無かった様で、赤・白・青の順番、表示されるストライプの本数にも多少の違いがあったようです。
このトリコロールの3色が使われた理由としては、当時絶大な勢力を持ち、ハワイにも大きな影響力を及ぼしていたイギリス、フランス、アメリカ3国のデザインを取り入れたという説や、その当時すでにイギリス、アメリカどちらからも強い影響を受けていたカメハメハ大王が、両方の国の顔を立て、この配色を採用したのではとも言われています。
1843年、イギリス海軍がハワイを占拠した際には、一旦すべてのハワイの旗が破棄された事もあったようですが、1845年には8島を表す8本のストライプの数と白・赤・青の順番も、現在のスタイルで確定したようです。
この後、暫定政府,共和国,準州,州と、ハワイのあり方はめまぐるしく変わりますが、ずっとこの国旗は保ち続けられ、1959年にハワイが州に昇格するに伴い州旗も正式に承認されます。そして、1990年には7月31日がハワイ州旗の日として、ジョン・ワイヘエ知事によって制定されるのです。
ホノルル・フェスティバルは、今年15回目を迎え、毎年3月恒例となったハワイ最大の文化交流イベントです。
このホノルル・フェスティバルは、イベントを通じてハワイの人々に、日本各地のお祭りをはじめとした文化・芸能、武道などを紹介すると同時に、日本からの訪問者は、ハワイの国際色豊かな多民族社会の文化を学ぶ事で、日本とハワイの交流を深めることを目的にしています。そして、サブタイトルに「パシフィック・ハーモニー」とある様に、民族や世代をこえた交流の輪を広げ、日本とハワイのみならず、環太平洋の国々との親善の輪もより大きく広げて、世界平和に少しでも貢献したいと願うイベントです。
本年の実施は3月13日(金)から15日(日)までの3日間。15回目となる今年のホノルル・フェスティバルのサブテーマは 「Heart of the Pacific, Creating Our Future」。 日本語では「異文化をはぐくむアロハの心を未来へ」です。
メイン会場となるハワイ・コンベンションセンターでは、「どらえもん」の劇場版映画上映会や、世界からも注目される日本のサブ・カルチャー、オタク文化としてメイドカフェ、マンガ・アーティストによるワークショップなどアニメ関連を紹介するコーナーも新設されるほか、人気ミュージシャンによるライブ、地元ハワイを中心としたクラフトフェア、日本の夜店を再現した縁日などが行われます。何故か(?)バラク・オバマ新大統領の就任を祝って、福井県小浜市から「おばまガールズ&おばまボーイズ」も参加予定だとか、、、
他にも、アラモアナ・センターのセンター・ステージ、ビーチ・ウォークでも様々なパフォーマンス、出し物が連日行われますが、いずれも基本的に入場無料です。
最終日15日の夕方4時半からは、ワイキキのカラカウア大通りを参加者によるグランド・パレードが練り歩きフィナーレとなります。
イベント・スケジュールの詳細はこちらからどうぞ
日本をはじめ、フィリピン、タヒチ、オーストラリアなど環太平洋の国々から120もの民族舞踊や文化を披露するグループが参加を予定しているホノルル・フェスティバル。この時期に、オアフ島ステイの人は是非参加してみて下さい。
今年はハワイがアメリカの50番目の州になって50年目の記念すべき年。
前回のエントリーでもお伝えしたように、プリンス・クヒオの時代にハワイはアメリカの統治下になります。その後1900年代半ばに何度か、正式な州へと昇格させようと言う運動が起こりますが、実現にはいたりませんでした。
しかし、1959年3月、上院・下院、両議会での投票の結果、州への昇格案が承認され、3月18日に当時の大統領アイゼンハワーが署名してハワイの州昇格が法制化されました。そして、同年8月21日には正式に、ハワイがアメリカ50番目の州となるのです。
今年はその事をお祝いする為の様々なイベントが予定されていますが、今月18日に予定されているのがA Musical Tribute: 50 Years of Statehoodと題された記念イベントです。
ダウンタウンのステイト・キャピタル(ハワイ州政府庁)で、お昼12時から1時間半行われる公開記念イベントでは、建物の中の円形ホールに1959年からの様々な歴史的資料が展示され、音楽のレジェンドを招待してのエンターテインメントやハワイ近衛兵の演奏なども予定されています。
また、まだ詳しい日程は発表されていませんが、近々、Walking Tour of 50 Yearsと名付けられた、ダウンタウンエリアの歴史探訪ツアーが実施されるようです。このツアーではイオラニ宮殿、ワシントン・プレイス、チャイナ・タウン、ハワイ・シアターなど巡り、ハワイの歴史や文化を深く紹介してくれるようです。
その他の50周年記念関連イベント情報はこちらから
昨年11月に発行されたミント(ハワイ州のシンボルとしてカメハメハ大王が刻まれた25¢硬貨)に続いて、今年の9月にはハワイ州50周年記念切手も発売になるようです。


この際、関連グッズをあれこれコレクションしちゃいますか?
前回のエントリーに書いたとおり、毎年3月は、クヒオ月間とも呼ばれ、プリンス・クヒオにまつわる様々な関連イベントや式典がワイキキを中心に開催されます。
さて、今回はこのプリンス・クヒオの人となりについてご紹介しましょう。

プリンス・クヒオは、そのフルネームをジョナ・クヒオ・カラニアナオレといいます。
クヒオは1871年にカウアイ島コロアでカウアイ島最後の王、カウムアリイのひ孫として、ハイ・チーフ、デビット・カハレポウリ・ピイコイと、カピオラニ王女の妹にあたる女王ケカウリケ・キノイキの間に生まれました。
クヒオは、幼少期に叔母であるカピオラニ女王の養子として引き取られ、正式にハワイ王朝の王子となります。ホノルルのロイヤルスクールとプナホウ・スクールで教育を受けた後、数年間に亘ってアメリカ・カリフォルニア州やイギリスのビジネス・スクールなどでも高等教育を受け、ハワイ王朝崩壊直前にハワイに戻って来る事になりますが、すぐさまカラーカウア王から内務省を管轄する重要なポストに任命されます。
1891年、カラーカウア王がサンフランシスコで客死し、リリウオカラニ女王が王位を引き継いだ後も、クヒオ王子は女王を支えて政権運営に努めますが、その2年後の1893年1 月、アメリカへの併合派がサンフォード・ドールを代表としてハワイ暫定政府を樹立させてしまいます。
リリウオカラニ女王は、併合派の力に屈して王権を放棄する事となりますが、当時のアメリカ大統領クリーブランドが、この政変はハワイの人民の意志によるものではないとして、この暫定政権を認めませんでした。その為、併合派は1894年、ハワイ共和国を成立させ、以後、約5年間ハワイは「独立国」として存続する事となります。
1895年、再度、王朝を復興しようと一部のハワイアン達が反乱を起こします。この事件でリリウオカラニは反逆計画を隠ぺいしたとしてイオラニ宮殿に幽閉され、クヒオもこの反乱に加わったとして、共和国への反逆罪で逮捕され、政治犯として1年近く刑務所に収容されてしまいます。
その後ハワイは、1898年にアメリカの属領となり、1900年には正式に併合されて、その準州になると云う経緯をたどります。
クヒオは釈放後、ヨーロッパを視察するなどした後に政治活動を本格化します。それまで属していたネイティブ・ハワイアンの代表として、その権利を守ろうとする政党「ホーム・ルール・パーティー」から、1901年、共和党へと転じ、その翌年にはハワイ準州選出の下院議員となって、ハワイアンの政治家として初めてアメリカ合衆国議会に出席します。
Hawaiian Homes Commission Actを成立させるなど、1922年1月7日に他界するまで、ハワイ王家に血をひく者として生涯ハワイアンの権利擁護のために尽くした彼は「人民の王子」「市民の王子」と呼ばれ、今でも多くの人々に愛され続けています。クヒオ王子はホノルルのダウンタウンの山側、マウナアラのRoyal Mausoleum王廟に葬られています。